眼鏡

 学校へ向かう途中の地下道で学校の先生を見つける。白いパーカにいつものジーンズ。いつもの鞄からは白いコードが延び、見えないけれどきっと耳へ。缶コーヒーを飲みながら。あれはきっとボスのカフェオレだな。そんなことよりも眼鏡。黒のセルフレーム。眼鏡眼鏡と親友にメールする。早足で歩いて彼に近づく。ばかじゃないのと親友。つれない返事にわかってないなぁとメールを打っている間に彼は遠くに行ってしまう。小走り気味に歩いたのに追いつけず。声を掛けて走り寄る作戦の方が良かったか。とぼとぼと先ほどの半分くらいの速度で歩き地下道を上がる。10月に入ったのにまだ暑い。学校の中庭に彼を見つける。別館の前でひとり。煙草を吸っている。一緒に煙草を吸いに行こうかしらと思ってる間に、後ろから来たクラスメイトに声を掛けられ少し動揺。おはよう。おはよう。おーい。とクラスメイトが煙草を吸っている先生に挨拶。私を無視して彼は彼の方へ。仕方ないからといった風に、まじかよと内心舞い上がりながら私も彼の方へ。やっぱりボスのカフェオレで、眼鏡はちょっと赤茶色でもう耳にはなにもささってない。ちょっと寝ぐせがついた髪がかわいい。かわいい。かわいいぞう。とひとりでテンション上げてる間に予鈴。じゃなくてこれは本鈴。やっべと3人慌てて階段を駆け上がる。それから4年。あんなに好きだった先生と2年も同棲しちゃったりして、USJの年間パスとかふたりして買っちゃったりして、一緒にお風呂に入ったりしちゃったりなんか色々あったけど、私は元気です。先生は元気ですか?

いいじゃないか

 毎晩君からのメール待ち続ける僕とラジオから声がする。モニタの明かりが目に痛い。僕は少し目をつぶるとすぐにも寝てしまいそうだから、ほんの少しだけ目をつぶる。つぶるだったかつむるだったか気になりブラウザを起動させる。まだ仕事してるのかなとラジオ。白いモニタから目を離し、僕は鞄に仕舞った携帯を探す。1時半。とっくに電車はない。席を立ちところどころ電気の消えた事務所を歩き喫煙コーナへ移動。今日は仕事で帰れませんという内容の文章をぽちぽち打つ。僕は文章を考えるのが苦手でこれだけの文章を考えるのさえ億劫になる。彼女へのメールを打ちながらそんなことを考えている自分に気付きがっかりする。でも仕方ない。これまでずっとそうやってきたから。メールを送信する。彼女はもう寝ているだろうか。煙草を吸いおわる前に睡魔が襲う。睡魔というか単なる疲労かもしれない。僕の身体を心配する彼女からのメールが重く感じる。仕事で帰れませんなんてメールを送るんじゃなかったと後悔する。携帯は点滅しない。席に戻り眩しいモニタには制作途中のデータ。座りなおしてキーボードに手を伸ばした瞬間、鞄の中で音。7回の振動で彼女からだと分かる。僕はわざと一作業してからメールを読む。冷蔵庫に栄養ドリンクが入ってるからと彼女は言う。さっき飲みましたと独り言。キャッチーなメロディが繰り替えされ曲が終わる。アジカンの新曲か。僕は家に帰ってもう一本栄養ドリンクを飲むため作業に戻る。

僕とホットケーキ

 僕はホットケーキが好きだ。どのくらい好きかというと、市販のホットケーキミックスを使わず、自分で調合した粉を使い、焼く。何度も何度も試作を重ね、より良い調合を求めた。僕は理系だから、なんて森博嗣みたいなことは言わないけれど、僕にとってホットケーキ作りは実験だった。
 田舎から訪ねてきた妹が、ホットケーキの調合に熱を上げる僕を見て「お兄ちゃん、ホットケーキ作らずに就職活動した方がいいんじゃないかしら……」と慎ましく言った。僕はその言葉が全く正しいと思った。次の日、ホットケーキを作ろうと思ったが、たまごが冷蔵庫に無かった。「たまごがなけりゃホットケーキが作れないじゃないか!」僕は憤慨したが、妹は無視して眠りについた。朝、綺麗に焼き上がったホットケーキを見つけた妹はもう何も言わなかった。
 夜中にスーパーサカエに言ってたまごを買ってきてまでホットケーキを焼いた僕に何も言ってくれなかったことが悔しかったわけではないが、それから僕は1,2度焼いただけで、それ以来ホットケーキを焼くことをやめた。

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 ある日、高校の同級生の北田が家に遊びに来た。彼女はリッツとホットケーキミックスを買ってきた。とりあえず僕らはリッツを食べた。たまごと牛乳が冷蔵庫にあったので、話もそこそこホットケーキを作ることにした。「ホットケーキミックスで焼くの、初めてなんだ」僕は言った。ボウルに粉を入れ、たまごを割り、牛乳を注ぐ。泡だて器で混ぜると程なくだまは無くなりトロトロとした懐かしい感触が蘇る。そうそう牛乳は少し少なめにすると良かったんだった。僕は懐かしさで胸がいっぱいになった。テフロン加工のフライパンに油は不要。一度濡れ布きんで温度を下げ一気に流し込む。弱火で焼く。裏返すタイミングは身体が覚えている。北田が横で歓声を上げる。綺麗なきつね色に僕は満足する。さらに弱火。さらに弱火。この間に皿とバター、カナダのお土産でもらったメイプルシロップを用意する。クリームシチューを作った残りの生クリームを、電気ドリルを改造して作った自作ハンドミキサーで撹拌しホイップクリームを手早く作る。その間にホットケーキを裏返すことを怠ってはいけない。僕は今誰よりも効率よく動いている自信があった。すべてが整ったとき、丁度ホットケーキが焼き上がり、北田が変なテンションで踊りだし、僕は嬉しくて泣く。泣く。

ドラマ性のない日々。

 金曜の晩に繭子が訪ねてくる。黒のパンツにストライプのシャツ。上に白いユニクロのパーカを羽織っているものだから、教育実習生みたいに見えると繭子に伝えると、照れたような困ったような怒ったような複雑な顔を僕に向けた。僕は彼女のその不思議な表情が好きだ。
 僕がインターネットをしている合間に、彼女は着替えて1週間分の溜まった洗い物をがしがし片付ける。少々洗い方が雑ではあるが、小まめに洗ってくれるので正直助かっている。洗った後の少し冷たい手で僕の素肌を触るのだけは勘弁してもらいたいものだが。
 それから繭子はお風呂に入って、僕は安い梅酒を飲みながら本を読む。お風呂から上がった繭子の髪を乾かす。犬になったみたい。繭子が言う。僕も犬を乾かしてるみたいだと思っていたので少し笑う。喉が渇いた!と机の安い梅酒に手を伸ばして繭子はそれを一気に飲み干す。苦い顔。お茶だと思った。甘い!と舌を出してこれでもかというくらい顔をしかめる。その顔が面白くて僕は少し笑う。敷きっぱなしの布団に繭子が倒れる。酔ったわけではない。僕は読みかけの本を置いて、繭子に覆いかぶさりじゃれる。きゃっきゃと小さい子どものような声を出して繭子が笑う。ひげが伸びかけのあごを彼女の頬にこすりつける。痛い痛いと彼女が笑う。年末に帰郷した際、4歳の姪っ子に同じことをしたなと思い出す。繭子に言うと姪っ子と同じように口を突き出して拗ねるんだろうなと想像して顔がにやけた。
 布団に入って僕は本の続きを読む。横で繭子が口を開けて寝ている。テレビで誰かが嫁の寝顔はかわいいと言っていたが、繭子の寝顔はあまりかわいくない。見慣れたその寝顔にキスすると、ぱちぱちと繭子の黒い目が開いて僕を見る。でもすうっと目が閉じて彼女はまた眠る。僕は本を諦め部屋の電気を消す。繭子を抱きしめる。首筋に唇を当てると彼女は小さい声を漏らす。小さい子どもみたいに笑っていた繭子が僕の陰茎を口に含む。僕はあっという間に果ててしまう。そのまま寝て仰々しいアラームの音で目が覚める。
 そんなに頻繁に会ってたら飽きるんじゃないの。昔付き合っていた恋人にそう言ったことがある。刺激的とまではいかないが毎日それなりに楽しいし、それが当たり前になりつつある。くだらない再放送を見て休日を無駄に過ごすのも悪くないのかもしれない。出不精の僕は毎日それでも良いけれど、明日はふたりで少し大きめのベッドでも買いに行こうか。繭子は、うれしいとはにかみが混ざってさらにその感情を隠そうとした複雑な顔で頷いた。

重たい本

 11時55発の最終電車に僕は乗る。
 御堂筋線からの乗換客が駅員に急かされ足早に乗り込んでくる。あっという間に座席は埋まり、僕の横には少し汚れた紺の作業着を着た男がすでに舟を漕いでいる。
 僕は手に持っていた分厚いノベルスを取り出し読み始める。先月辺りに発売された昔必死で読むほど好きだった小説家の新作で、時間つぶしのつもりで寄った駅構内の本屋で買ったものだ。通勤の車内でしか読まないので、まだ数十頁しか読んでいない。左側未読の頁が数百あり最初と最後が読みにくくて仕方がない。まぁこの小説家に於いてそれはいつものことなので懐かしくもある。
 御堂筋の連絡待ちで少し発車が遅れるとアナウンスがあり、程なくすると先ほどと同じように沢山のひとが乗り込んで来て車両に人が溢れる。ほとんどの人は車内を通り隣の車両へ流れていく。僕は最終電車のこの様子が好きでついつい本を広げていることも忘れて見入ってしまう。少しひとの波が途切れ、最後はやはり駅員に急かされて小走りのひとがぽつぽつ乗り込む。その頃になると車内も落ち着く。
 僕は本に視線を戻す。相変わらず作者のマスタベーション的な講話が長々と続く。僕はそれが嫌いではない。
 駅員と共に最後の客が走ってきた。
 彼女が乗り込み扉が閉まる。
 同じ年くらいの彼女は扉のすぐ近くで落ち着き、過ぎる駅を背にしてピンクの光沢のあるカバンから本を取り出す。丁度僕の膝の上に乗っているのと同じくらいの厚さのノベルスに思わず僕は口を緩ませる。
 持ち難い本を読み始めようとした彼女はふとこちらを見る。じっと見ていた僕と目が合いそうになり慌てて目を逸らす。目を逸らす前に彼女の丸い目が僕の本を捉え、同じように口を緩ませたのがわかった。もう一度見ると彼女は僕に向かい少し微笑んだ。僕は何故か真顔で会釈する。
 彼女はそのまま僕の方へ歩み寄り、小説家の名前を口にする。この本読み難過ぎますよね。でも文庫版で前後編はもっと読み難くない? 前作とか酷かったですものね。あ、僕前作読んでない。あ、実はわたしも。僕なんか宴までしか読んでない。宴、ノベルスで前後編でしたものね。そうそう重過ぎた。というかこれも大概重いです。まぁ京極ってそういうものだから。
 勿論、そんな会話が起こることもなく僕は膝の上に33頁目を開いたまま、いつの間にか眠っており、終点で駅員に起こされ目が覚める。外が静止画に変わった窓の前に彼女の姿はない。僕はとぼとぼ階段を上り改札を抜けいつものように家に帰る。

図書館

 僕は図書館で本を借りる。カウンタの向こうの香坂さんは僕のことに気付かずに、黙々とパソコンに数字を打ち込んでいる。眼鏡の香坂さんは大学を卒業したての21歳で僕より7つ年上。彼女は図書館の近くのグレーのマンションの203号室に一人で住んでいて、僕は時たまそこで勉強を教えてもらっている。勉強の合間にセックスをする。セックスの合間に勉強すると言った方が良いのかもしれない。もしかしたら香坂さんは僕にセックスを教えているつもりなのかもしれない。僕にセックスを教えたのは学校の先輩で名前は忘れてしまった。体育倉庫なんてベタな場所で僕は初めて見る女性器のしょっぱさに驚いたっけ。高坂さんはそのときの先輩よりずっと落ち着いていて僕は少し安心する。毎回何度も何度もセックスするのに嫌そうにしないから好きだ。香坂さんはずっと表情を変えないけれど、いく瞬間だけ少し泣きそうな顔をする。切なそうな顔をする。僕はきっとその顔が好きだ。女の8割は演技だってクラスのみんなは言う。高坂さんは演技はしていないと言うがきっと演技なんだろう。でもそれには気付かない振りをする。それがマナーだってこと、僕にだって分かる。
 高坂さんは僕が高校生になってから、図書館の館長と結婚した。写真で見た館長はしわしわのおじいちゃんだった。
 僕よりあんなおじいちゃんが良いの?
 高坂さんはいつもみたいに表情をあまり変えず少しだけ微笑んだ。