目が覚めると7時50分で、僕は朝ごはんを食べる間もなく8時9分発の電車に飛び乗った。
 家からホームまで数分走っただけだが息は荒く、日頃の運動不足を悔やんだ。通勤時間真っ只中の混雑した車内の熱気が今の僕には暑苦しく、10月も終わりに近付いているというのに額に汗が浮かぶ。
 漸く息が整ってきた頃、次の駅からすでに満員の車内にさらに人が乗り込んできた。ドア付近から奥まで押し込まれて足を踏まれたりしながら、ふと前を見ると黒髪の女が背を寄せていた。
 うなじ辺りの髪が短く、肌が白い。背中が少し開いた黒いセータの後ろの白い肌に青いものが少し見える。気になって不自然にならないように気をつけながら、目線を少し下の彼女に向ける。
 蝶。青い蝶が肌に描かれている。深いとてもきれいな青でゴシックなデザイン。タトゥ。
 顔の見えない黒髪の女の青い蝶が僕の引き出しを開け、身体が熱くなった。
 舞……?
 無意識に出た小さな言葉に自分自身が一番驚いた。舞自身も突然の言葉に驚いたはずで、身動きの取れない満員電車の中で無理やり首だけを後ろに向けて僕の顔を見つけるなり大きな目をさらに大きくした。
 乗り継ぎ駅で僕も舞も降りた。久しぶりと彼女の横を歩きながら話し始める。
 5年振りに会った舞は当時よりさらに細く白く綺麗になっていた。
 乗り換え先のJR線改札を通り、僕は5年間仕舞っていた言葉を口にする。
 
 どうして、あの場所に、来てくれなかった?
 
 舞はすっと目を細め僕を見た。笑ったのか蔑んだのか解らない表情に僕は困惑する。
 そのまま踵を返し僕とは逆側のホームへ向かう。追おうとしたが僕の側のホームのベルの音で我に返り、本日2度目の全力疾走で電車に乗り込む。
 僕はまた舞に振られたのか。またも満員電車で汗をかきながら僕は不思議と暖かい気持ちで、胸の痞えがが取れたとは正にこのことなどと思う。
 環状線から見える大川は黒く、空は青く高い。
 
 ここから見る桜が絶景なのよ。
 僕らはよく電車の中から大川を臨む。薄いブルーグレーの川面に白い桜がずらりと映る。電車がそこを横切る僅か数秒のその景色を楽しみにしていた。
 夜、街灯に照らされた桜の下に舞は来なかったけれど、それはもう5年も前のこと。
 5年という歳月は、その想いすら風化させる。