Musical Baton

「あなたに、クリスティーヌは譲るわ。今度の公演、がんばって」
 かつての看板女優は、そこにはいなかった。
 
 劇団に入って5年。数々の舞台で主役を演じて来たが、2歳先輩の彼女の演じるクリスティーヌ役だけは貰えなかった。私が女優を志そうと思ったきっかけとなった演目の主演女優役だけに、どうしても演じたかった。これまでに演じた役はどれも皆絶賛されてきた。演じきる自信はあった。
 5年間ずっと彼女の背中を追ってきた。漸く彼女と並ぶ女優になれたと思った時には、すでにクリスティーヌは彼女のものであった。彼女のように細く澄んだ声は出せないが、太い芯のある声に定評がある。自信もあった。
 2年振りの公演のキャストが発表された。クリスティーヌはやはり彼女であった。あなたにはまだ経験が足りないと言われた。キャストを一新させるべきだと主張したわたしは軽くあしらわれた。納得がいかなかった。わたしはまたカルロッタだった。傲慢なプリマドンナの役はうんざりだった。いい加減ファントムに愛されたかった。
 何度目かの稽古の休憩時間に彼女は階段から落ちた。
 わたしが落としたんじゃない。
 そんなドラマみたいな展開になるはずがない。彼女は足を滑らせて数段階段を落ちた。運悪く胸元を強く打ち、一時的に呼吸がうまく出来なくなった。歌えないクリスティーヌに用は無い。急遽キャストが変更され、わたしがクリスティーヌに抜擢された。
 
「あなたに、クリスティーヌは譲るわ。今度の公演、がんばって」
 かつての看板女優が、か細い澱んだ声でわたしに笑いかける。
「すぐに、治ると、信じています」
 目が熱くなる。女優のプライドを賭けた演技。
 
 わたしが落としたんじゃない。
 わたしが落としたんじゃない。
 わたしが落としたんじゃない。