電車男

 瞑っていた目を開けると、ラフなサンダルの女の足が目に入った。
 僕の前に白いワンピースにグリーンのカーディガンを羽織った女が立っていた。細い彼女には似合わない大きさの腹が妊婦であると控えめに主張している。妊娠初期なのか、まだ腹はそれほど重そうではない。
 儚げだが芯の強そうな瞳の女を見て、話題のエルメスはきっとこんな女性なのだと想像する。僕のイメージにピタリとはまる。きっと彼女がエルメスなのだ。
 腹の子の父親は冴えない電車男。本当に彼女が毒男を愛したのだろうか。彼にはどんな魅力があったのか。ドラマや映画で散々美化して語られる物語に答えがあるとは到底思えなかった。現実はもっと単純で夢のない出来事だと思っている。
 視線を上げるとエルメスの僅かに膨らんだ腹が目に入った。
 慌てて立ち上がり、彼女に席を譲る。
 妊婦が目の前に立っているのに、ぼけっとイスに座っていた自分を恥じた。
 次の駅で降りますからとエルメスは柔らかに言う。
 僕も次の駅で降りるつもりだったので座るに座れず、手持ち無沙汰のままエルメスの横に立った。幸い向こう側にいた帰宅途中のサラリーマンが疲れた様子で空いた席に腰を下ろした。
 
 ありがとうございます。
 結果的に席を譲ったわけではないのに、エルメスが何度も礼を言うので居心地が悪い。
 電車男との出会いもこんな風に礼を言ったのだろう。
 しかし僕は、酔っ払いから彼女を救ったわけではない。
 きっと彼女は身重の自分に席を譲ろうとした行為に何度も何度も礼を言うくらい丁寧な女性なのだろう。席を譲ろうとした一青年である僕にこのまま恋してしまうんではないかと危惧する。いやいや彼女の腹の中には電車男の子供がすでに。
 数分後、着いた駅に降りるときにもう一度、彼女は僕に礼を言った。
 僕は何故か段々申し訳ない気持ちが膨らんできて押しつぶされそうだったので、いえ、とぶっきらぼうに応えてすたすたと改札口へ逃げた。
  
 しかし、機会があればまた譲ってみようと思う。そういう事は癖にしてしまう方が良いのだ。もしかしたらほんとにエルメスに出会えるかもしれないから。