7月12日

 12時5分に母親が孝ちゃんお誕生日おめでとうと言った。その言葉で気付いた訳ではないけれど、僕は26歳になった。
 
 パソコンのタスクの時計を見る。12時を少し回ったところ。今日は1年前に別れた恋人の誕生日だった。孝一と別れた後、私は合コンで知り合った男と付き合ってみたがうまくいかなかった。彼が忘れられなかったわけではない。今でも孝一のことは恋人としては見ることができない。
 
 携帯は鳴らなかった。そもそも付き合っているときから、僕の誕生日を間違える女だった。25歳の誕生日、早智子がおめでとうと言ったのは13日を回ってからだった。だからきっとまた、忘れてしまったんだろう。明日の昼間にでもひょっこりメールがくるかもしれない。そこまで考えて、何を期待しているんだろうと自問して虚しくなった。
 
 新しい恋人と別れた後、私は孝一を頼った。孝一は相変わらず人の良さそうな目で呆れたような慈しむような表情を見せた。私は彼のその感情に気付かないふりをした。彼の誕生日にメッセージは送らない。
 
 知らない間に眠っていた。起きて顔を洗い、リビングに戻るとテーブルの上に用意されていたトーストとコーヒーを流し込んだ。寝癖を直してスーツに着替え家を出る。駅までの道のりで一度携帯電話をチェックしたが何も受信していなかった。
 
 昼休み、同僚の真由子の恋愛相談を聞き流す。美雪はカスピ海ヨーグルトの話をしている。私はどちらにも全く興味が無かった。上司の木村が横を通り過ぎる時だけ、背筋を心持ち伸ばし笑顔を作り、女子の輪に入っている風を装った。
 
 終業時刻の6時半が過ぎると、私服に着替えた事務の井田さんが食事に誘ってくれた。誕生日を覚えていてくれたらしい。素朴で家庭的な雰囲気を持った彼女は、一見キツい印象を周りに与える早智子とは正反対だった。彼女と食事をしている時に、早智子が頭から離れないことを情けなく思った。
 
 黒いパンプスを脱ぎ捨て、ふくらはぎに冷却シートを貼りベッドに倒れ込む。10時半。まだ7月12日だった。孝一は私からのメールを待っているだろうと確信していた。彼の思う通りに動くのが嫌で意地でもメールはしないつもりだった。昼休みの終わり際、美雪が結婚退職することを打ち明けた。相手は上司の木村だった。何も気付かなかった自分が本当に惨めでバカだと思った。そう思ったことがなにより悔しかった。
 
 井田さんを送る電車の中で、もう一度携帯電話を見た。やっぱり着信もメール受信もなかった。いつもは大人しい井田さんが電車を降りる時、僕の手を引いた。彼女は控えめに僕に好意を伝え、僕はそれに応えた。誘われるまま駅を出て、彼女のマンションへと向かう。
 
 ふいに思い出し、革の名刺入れから1枚抜き取る。4年前、入社したときに木村本人からもらった名刺。角が折れてくたびれたその名刺を一思いにゴミ箱へ投げ入れる。少しセンチメンタルに浸る自分を見つけた。無意識に出た好きだったのかしらという自分の言葉で一気に冷めた。
 
 ぬる目のシャワーを浴びながら、僕は意外と冷静だった。別れた彼女を忘れられないくせにこうして自分に気のある事務員とセックスすることに抵抗はなかった。小さな井田さんの身体を早智子と比べながら抱いた。誰に対してもなにも感じなかった。
 
 時計を見ると11時半だった。13日になったら、日付を間違えていたふりをしてバカみたいに明るいお祝いメールでも送ろうと思った。
 
 ベッドサイドに置いた僕の鞄の中で、携帯電話の振動が4度で止んだ。時計を見ると12時5分。振動が早智子からのメールかどうか確かめることはせず、僕はそのまま井田さんを抱いた。