造形学校で同じクラスだった倫子は、真黒に塗りたくったカンバスに「黒」と名付けて提出するような少女で、作風は難解を通り越して率直というかそのまんまのものが多かった。それでも僕は彼女の「黒」を見たとき、敵わないと思った。彼女のことをもっと知りたいと思った。
 それってローリングストーンズ?なかなか気が利いていると思った台詞が、口を離れた途端ものすごく陳腐に聴こえ、慌てて「いいねその絵」と付け足した。「ローリングストーンズはよく知らないけど、その曲だけは好き」倫子はそう言って僕を見た。思いがけず真っ当な返答に驚いてすぐに言葉が返せず、かなり間が抜けて「僕も」とだけ言えた。
 新町にある白い洋書屋にふらりと立ち読みついでに入ると、レジに暇そうな倫子がいた。驚いた自分を落ち着かせた後、目に付いた分厚い洋書を適当に差出し声をかける。この本、あたしも買ったの。やはり思いがけない彼女の返答に言葉が返せず、財布を開けたまま金も出さず「ほんとに?」と上ずった声で言った。「うそ」とゆっくり倫子は言い、完全に金を払うことが頭から出て行ってしまった僕を見て、はじめて笑った。
 
 倫子が僕の部屋で眠るようになったのはそれから一年程後で、さらにそれから十ヶ月僕らは一緒に過ごした。その間に何度か作り上げた作品の評判は悉く上々であったが、それらが倫子に色濃く影響を受けていることは僕が一番よくわかっていた。一度だけ倫子が僕の絵を見ていいねと褒めてくれたことがあった。憧れでもある倫子にそう言われ嬉しくてまた言葉が出てこず、君に影響を受けているから当たり前だよとつまらないことしか言えなかった。
 僕が作品を作るのと同じくらいのペースで倫子も作品を作り上げた。彼女の生み出すのもは一貫して黒いものが多かった。内側の黒い部分を具現化させたものが彼女の作風だと評するものもいたが、倫子はいつも「考えすぎよ。貴方はいつも難しく考えすぎて、物事の本質を見失うのよ。」と笑った。
 倫子の創ったものを見るたびに、彼女に惹かれた。魅力的な作品を創りあげる倫子は魅力的だと思った。自分の胸で眠るひとが素晴らしい才能を持っていることが嬉しかった。
 結局、僕らが過ごしたのは一年にも満たなかった。倫子はフランスへ留学し僕は日本で広告代理店に就職した。別の道を選んだ僕らは簡単に別れを告げ、新しい生活が始まった。
  
 デザイナーの仕事を任されるようになってきた頃、僕は新町の白い洋書屋へ向かった。丁度、仕事の資料を探す用があったし久しぶりに立ち読みも悪くないと思ったから。ガラスの扉の向こうは小さい店内に人が狭しと肩を並べ本を読み、僕も同じように肩を並べた。
 手にした一冊の雑誌に見覚えのある黒い造形が目に入る。NOMURA Tの文字を見つけ、何故だか笑みがこぼれた。ふと自然にレジに目がいったが、勿論倫子は居なかった。