斉藤春美

 昨日の夜にもチェックしたはずなのに新着メールが3件もある。そのどちらも春美さんからで、うち2件は受信日が30秒しか違わない。見なくても内容は見当が付いたが毎回クリックしてしまう。斜め読みして返信しないことも多い。彼女は毎日メールを寄越す。一体僕に何を期待しているのだろう。
 旦那の浮気の相談などという重たい内容に、携帯で撮った短い動画が付いてくる。女子高生みたいに嘘っぽい笑顔とテンションで春美さんは手を振る。今日も旦那は東京出張だよー、えーん(T_T)と彼女は泣き真似をする。寂しいんだようと子どもっぽい顔で僕に訴える。僕は自室でそれを受信して、寂しいなら春美さんも浮気すればいいと返事する。でもあたしまだ旦那を愛してるのと彼女は続ける。今度は真似なんかじゃなく泣く。2時間後くらいにドアホンが鳴って、扉の向こうにはきっと春美さんが立っている。
 チェーンを外してドアを開けるとやはり春美さんで、僕は挨拶もせずにそのまま彼女の薄いスカートの中に手を差し入れる。扉の閉まる音と同時くらいに春美さんは抵抗の声を出す。その度に僕は手を止め無言で春美さんをじっと見る。すぐに彼女は視線を逸らし右下を見ながら小さく最後の抵抗をする。1Kアパートの狭い玄関で春美さんの左足を持ち上げ、壁に押し付け犯す。彼女は僕ではない男の名前を呼ぶ。僕は春美と彼女の名前を呼ぶ。
 数分後春美さんはバスルームへ向かい、僕は干しっぱなしのタオルで身体を軽く拭き、半裸のまま冷蔵庫の水を飲む。テレビでは小堺一樹がのん気にサイコロを持って踊っており、僕は平日の昼間から何をしているんだろうと後悔する。

七夕の夜、

 FMラジオが得意気に音楽を鳴らす。時の銀河に裂かれてもとはよく言ったもんだと仕事の手を止めて一息つく。書きかけの図面を一旦下げてブラウザのショートカットをダブルクリック。検索バーに文字を打ち込む。見覚えのあるアルバムジャケットが目に留まり、そういえば晴れた朝の日に流れていたなと少し前のことを思い出す。
 机上のカレンダーを見ると7月5日。咲子と離れて2ヶ月経ったことに気付く。1ヶ月前はもう1ヶ月も経ったのかー早いねーなどと言っては笑っていた気がする。2ヶ月経った日は1週間と半分も前で、その日に何をしたのかも思い出せない。勿論咲子とは連絡を取っていない。
 咲子に連絡を取ってみようかと時計を見る。今の時間なら丁度仕事が終わった頃かもしれない。少し文面を考えてすぐに全文消去する。少し前に小さな喧嘩をしてそれ以来うまくコミュニケーションが取れない気がしていた。咲子はいつも通りに話をしていた。僕はいつまでもぐずぐずと引きずっていた。
 いつまでも前のことを引きずるところがしんどいのよと前の彼女が去った。やはり咲子も同じことを思い離れていくのかもしれない。そこまで考えて初めて、自分の問題に気がつく。何も変わっていない自分にうんざりし、自分にうんざりして問題を流そうとする自分にもっとうんざりする。そうやって考えても仕方のないことばかりぐるぐるぐる考えるのが勇ちゃんの悪いところだと言ったのは誰だったか。
 もう一度メール画面を開きキーを叩く。今度はお仕事お疲れ様の一文しか書けなかった。
 検索ボタンをもう一度押し、並ぶウェブサイトの中からひとつを選ぶ。君に逢いたいとたくさん出てくる歌詞を見て咲子を思う。久々に咲子に逢いたいと思う。やっぱりメールを送ろうかと一文しかないメールの続きを書き出す。結局他愛もない話を数行しか書けなかった。送信ボタンはまだ押せない。遠く離れた咲子とは、3日後の七夕までに逢えることはないだろうが、仲直りすることならできるだろうか。
 長いこと離れてたのに別人にならなかったねと歌は続く。僕は送信ボタンを押す。

消失点

 喫煙コーナーから外を見る。向かいのビルと向かいのビルの隙間を赤い電車がちらりと横切る。7階のフロアから1780ミリ上がったところに僕の視点。向かいのビルも遠くのビルも僕の正面に線が延びる。線は一点に集まる。世界が線で構成されて、デジタルなイメージが不意に広がる。勿論それが実際目に見えることはなく、僕はマトリクスの外へ出られないことを残念に思う。

発疹

 皮膚が荒れ赤く腫れた彼女の指は、少しだけ熱かった。かゆくて大変。彼女は笑って僕を見る。病院行った方がいいんじゃないの?何度目かの僕の言葉に、そのうち治るから大丈夫よと言い続けていた彼女は初めて、うんと言った。
 幸いにも僕の家の近くは大きな病院が数棟並ぶ医療エリアで、その中のひとつに僕は彼女を連れて行った。1階で受付を済ませ皮膚科のある4階へ。待合室は一見してアトピー性皮膚炎だと分かる子どもが数人、他にもスーツの男性と学生が1人ずつ。診察室は複数あり、僕らは程なくして第2診察室の中へ入った。
 
 僕が風呂から上がると、彼女は軟膏でべとべとになった指で器用にスプーンを使い、テイクアウトの炒飯を食べながらデスクライトで本を読んでいた。本がべたべたになっちゃって最悪の気分。不機嫌そうに彼女が言う。本がべたべたになるくらいで治るのなら安いものじゃないかと僕は思う。また、買えばいいよ。彼女はゆっくり僕を見て、そういう問題じゃないんだけれど、と落ち着いた(少し怒ったような)声で僕に言い、パタンと読みかけの本を閉じた。小説に出てきそうな動きだと僕は思った。
 
 4度ほど病院に通った頃から、彼女は朝起きれなくなった。僕は彼女がいなかった頃のように、キッチンでコーヒーを飲みながら立ったままトーストを食べる。僕が家を出る頃、漸く彼女は起きだしまだ少し眠そうな顔で、朝、ごめんねと言う。僕は寝癖のついた彼女の頭を少し撫でる。いってきます。気をつけてね。扉の向こうは雨。彼女はこれからもう一度眠るのだろう。
 
 彼女の指先はもう赤みを帯びてはいなかった。たくさんの水泡やびらんだらけで白かったり黒かったりして痛々しかった。発疹は指先から身体中に移っている。小さな赤い発疹だらけの彼女の身体を濡れたタオルで拭いた。興奮はしなかった。彼女は毎回、恥ずかしがった。僕はやはり発疹で溢れた小さな胸に触れるようにキスをする。
 
 ねぇ、私は死ぬのかしら。ベッドで上体だけ起こした彼女が言った。胸から蓮でも生えてくる?それなんの漫画?彼女は笑った。ねぇ、今日は少しだけ気分がいい。どこかへ出掛けない?どこか、行きたいところが?去年の春に行った公園がいい。噴水で、子どもたちが遊んでいたところ。あと、バレエも見たい。確か4月になれば眠れる森の美女が演ってるはずだわ。詳しいね。だって毎日退屈なんだもの。
 
 □ □ □
 
 土曜日の午後の公園は子連れの家族で溢れていた。どうやらセントパトリックディというアイリッシュのお祝いの日だったらしく、バグパイプを演奏するスカートの男性や、緑の服を着た子どもを多く見かけた。公園を中程まで歩いていくと大きな円形の噴水が見えた。小さな虹が見えた。淵に座って噴水で遊ぶ小さな子どもに見入った。横に彼女が座っているような気がした。

ギター少女と禁煙セラピー

 禁煙セラピーを読んで禁煙中のヒロイチは、禁煙中で手持ち無沙汰なのでギターを弾きますとギターを弾いた。暗くなったの部屋に彼のギターが響き渡る。ねぇなにか曲は弾けないの。たったひとりの観客だったタカシは赤い低いソファにもたれながらそう言った。ヒロイチは何も返さず小さな曲をひとつ弾く。小さな練習曲のようなその曲はぽろりぽろりと音を浮かばせタカシはそっと目を閉じる。
 耳に入る音の粒を飲んでしまわないよう頭の奥に貯めて貯めて貯めて、ギターの音が頭の中で渦巻くようにタカシはギターを聴く。ヒロイチのギターは決して上手ではないけれど、とても心地が良かった。

 坂の多いこの町で、暮らしてもう何年になるだろう。
 
 僕は何人目かの女の子の手を引いて坂を上る。僕が嫌いなこの急な坂を海が見えるから好きと彼女は言う。何度も見慣れた景色が不思議と違った風に見えて、単純な自分が少し可笑しい。どうして笑っているのと不思議そうに訊ねる彼女を見て僕はまた少し笑う。
 
 坂を上った先に展望台なんて洒落たものはないけれど、病院の駐車場から町が一望できる。晴れた日は海の向こうの町が見える。僕は彼女にそれを見せてあげたかった。
 僕の生活から彼女が消えて、急な坂だけが変わらずにいる。

 携帯のお天気アイコンが雪マークを示しており、朝からぎょっとする。布団に包まったままカーテンを少しずらして外を見ると、向かいの駐車場が白く染まっており空には雪が舞っていた。
 時計の針は8時50分。幾らなんでもそろそろ起きないと学校に遅刻してしまう。ポットでお湯を沸かしながら洗面所へ向かう。寝癖がほとんど付いていないので、さっとブラシで梳かしワックスをつける。突然、しゅうんと情けない音を立てて部屋中の電気が消えた。これはブレーカが落ちたというやつ?まさか!ポットとコンポくらいしか電気つかってないのに?朝とはいえ、ベランダから遠く離れた洗面所や玄関までは光が入らず暗い。仕方なく夏フェス用のペンライトと、小さな白い脚立を運びブレーカを確認する。しかしブレーカはすべて通常の位置におり、なぜだか分からぬまま暗闇の中、仕度を続けた。5分ほどで電気が突然点き、建物全体の電気が落ちていたのだと気付く。
 地下鉄は40分の遅れを経て漸く動き出したようで、タイミングが良かったのか悪かったのかいつも通りの時間で満員電車の中、学校へ向かう。
 梅田はやはり粉雪が舞っており、さすがに寒い。透明ガサを持つ手が凍傷なりそうなくらいの寒さで、下半身は雪塗れ。学校に着いた頃には雪だるまになってるんじゃないかと思い一人笑う。寒さの中、久々の粉雪を間近で見て綺麗だなぁと少し呆ける。すぐに寒さが現実へ引き戻してくれる。